色はいらないけど軸がほしい

音楽、本、映画、人、言葉、時間その他諸々

今、何を考えていますか

不透明な未来。

これから日本は、世界はどうなっていくのか。

退屈を紛らわすことに必死な若者。

事態を若者の所為にし、呑気に散歩をする老人。

 

無力を実感する日々。今日はある一曲を紹介しようと思う。

 

The SALOVERSの『夏の夜』という曲をご存知だろうか。この曲はThe SALOVERSのボーカルである古舘佑太郎が作詞・作曲した曲だ。そう、The SALOVERSは2の前身グループ。私が古舘佑太郎の存在を知ったのは2が生まれる少し前だから、その時既にThe SALOVERSは解散していた。

The SALOVERSが結成されたのが2008年。古舘くんが『夏の夜』を書いたのが18才の頃。つまり、バンドが結成されてから1年でこの曲が出来上がっている。名曲の誕生と経験は比例しない、「あのバンド、昔の方がよかったよね」と言われることが多々あることからも、寧ろグループ結成時あたりに名曲が生まれることが多いのでないかと思う。ファンが古株面してるだけだろと言われたらそれで終わりなのだが。

 

『夏の夜』という無数にありそうな曲名に魅力を感じず、無意識的に聞き流していたが、意識的に聞いてみてほしい。

 

さっきから見当たらない

自動販売機の光探す

僕は夏の虫

 

終電は間に合わない タクシーも見つからない

僕には心がない

 

幽霊たちは今夜も酒盛りをして

後悔 思い出話 歌にしよう

あいつら人間には内緒だぜ

 

真夜中にキッチンで

ブラッドオレンジジュースを飲み干した僕は悪魔のよう

 

夜明け前の祭りの後は

煙草の煙だけが漂ってた

あいつら人間には内緒だぜ

 

まず、イントロから夏夜を漂わせる空気感を醸し出していて、夜空を見上げて歩きたくなる感覚に陥る。私だけの夏。

歌詞に関しては、私は最初この曲は人間以外のもの、虫だったり幽霊だったり煙視点の曲だと思った。

「あいつら人間には内緒だぜ」

敵対しているけど、どことなく憎めない存在”人間”に対して、賑わいが冷めきった後の静かな夜にも物語があることを示している曲なのかなと。

 

でも、最近はたった一人の"僕"の歌なのかと思うようになった。

うまくいかないことがあって、途方にくれている僕。自動販売機の光に群れている夏の虫のように光を探している。それでも全て無駄なものなんてなくて、僕レベルのセンチ野郎はそんな日々も歌にしちゃうんだぞ、真夜中にオレンジジュースだってがぶ飲みしちゃうんだぞって。そして、賑わいの後に蒸した煙は僕だけにしか見えない光だったんだよって。

 

これを10代で書いちゃうんだから、困ったもんだよね。

古舘くんはこの曲を書いた当時の自分に嫉妬していると言っていたけど、それはもうこの曲は書けないという意味なのかなあと思った。良くも悪くも。

でも、それがおもしろいところだよね音楽の。PDCAが通用しないもんな。かっこいい。

 

人は無意識的に(もしくは意識的に)自分が見たくないものを排除する。それを価値観の違いで収束させることもある。

無意識を意識する。その謎に迫る。なんでも一回受け入れる。耳が痛いよ、もちろん。でも、我慢する。そうすると全て繋がっていることに気づくから。音楽でも、映画でも、人間関係でも。

なんで生きているんだろうね、なんのためにというか、生きていなきゃいけない理由ってなんなんだろうね。そんなことを考え続けたい。

私が子供に「なんで死んじゃいけないの?」と聞かれたら何と答えればいいのか。今のままだと、「死は未知だから、生と比較できないでしょ。なら、いつか生と死を比較するために生を得ている今、生を知る必要があるんじゃない?」とか言いそうだわ。

でも、不思議だなあ、自分はさておき、人に対して生きていてほしいと思うんだもんね。それはおそらく、(自分が生きているから同じ世界で)生きていてほしいということではないと思う。(自分が死の世界にいて同じ世界にいなくても)生きていてほしいと思うのだと思う。不思議だね。

生や死というものが神秘に包まれているものなのに、生を持続するために医療が発達しているのも不思議だな。

 

最近は、北野武作詞・玉置浩二作曲の「嘲笑」という曲を聞いている。

私は人と星について話したことがないかもしれない。太陽については話すことがある。月についても話すことがあった。星はなかったんだ。

一年間の振り返りだけ

 

あけましておめでとうございます。大分久しぶりになってしまいましたが、2019年を簡単に振り返ろうと思います。内容薄くなってそう(既視感) 

1月

念願のバンジー。古舘。成人。バイト。テスト。焼酎。ホッカイロ。

 

2月

春休み。伊勢神宮疲労。バイト。友達とご飯。実家。料理教室。下北沢。ライブ。

 

3月

まだ春休み。ギター。はとバス。京都。

 

4月

始業。まだ料理教室。学生団体。夢に向かう人。

 

5月

フェス。選考会。優秀な人。煩わしい人。ポジティブな人。

 

6月

選考、選考。課題。

 

7月

久しぶりの方。花火。火はついたけど、違う。テスト。

 

8月

夏休み。バイト。いろいろな人。あれもこれも違う。何が違う?

 

9月

まだ夏休み。夏合宿。たまには頑張る。

 

10月

始業。ライブ。体の調子が悪い。

 

11月

体の調子が良い。風のようにやってきて去っていく。

 

12月

いつの間にか1年が終わる。こんなで学生生活が終わる。相変わらず酒はおいしい。コンテンツの強さを実感する日々。

 

一昨年との違いは、手帳を見ないとこの月に行ったことが思い浮かばなかったこと。季節と事柄の結びつきを強くするためには、季節を感じることにも意識を向けることが必要になってくるんだなあ。

自分次第

誰かがやらなければならないけど、誰かがやってくれるかもしれない、別に私がやらなくてもいい。

 

小学生までは「リーダー」みたいなポジションにつくことが多かった。みんなを引っ張っていくこと(感覚)が好きだったし、リーダーといったらこいつだよな、の“こいつ”に入っていて周りにも認められていた(と思っていた)から、自分でも適していると思っていた。

中学生になって、その思い込みは180度覆された。周りに「リーダー」に向いている人がたくさんいた。それでも何回か自分がリーダーを務めることがあった。そこで友人から怒られた。自分が正しいと思っている決断に対して指摘が入ったことが初めてで純粋に驚いた。それまでは自分が考えていることのほとんどがベストなアンサーであると思っていた。それがベストなのか悩むことすらなかった気がする。自分の行動に先生でも先輩でもない同い年の友人からの指摘が入って初めて、自分がやろうとしていることがベストな判断なのか疑問に思った。

その結果、自分の考えを言うことができなくなった。自分の考えがベストなのか考えているうちに、別に私が考えなくても誰かが考えてやってくれるから、私はそれに従って助けていけばいいと思うようになった。みんながみんなリーダーだったらそれはそれで成り立たないし、いろんなポジションがあっていい。リーダーに適している誰かが絶対にいる環境だった。

大学生になって集団で何かをすることがあまりなくなった。ポジションにつくこともなかったから非常に楽ではあった。おそらく大学生になるまで、自己肯定感とか自尊感情とか自己評価は降る一方だった。そんな中出会ったアルコールとか甘ったるい人間は、それを補うコーピングとして作用し始めた。一時期、お酒があればなにをしてもいいと思っていた。また、大好きな音楽を聞くことができなくなるほどでもあった。

大学生活も後半戦に差し掛かり、自分と似たような人、つまり何かに溺れやすそうな人と友人になった。その人の行動を見たり、考えや悩みを聞くたびに「なんだこいつ、イタイな」と思った。今自分が思ったように、私の周りの人も私をそう思っていると考えたら寒気がした。多分、この頃から低い自己肯定感を上げていこう作戦が勝手に始動していた。それが吉とでるのか凶とでるのかはまだわからないけど、今までの人生の中で凶が出たことはないから今回も大丈夫だろう。

 

先日、2泊3日の合宿に行った。私が属している研究室と他大学の研究室の計三つの研究室が勢揃いする合同合宿だった。その合宿の準備として、同期でやらなければならないことがあったわけだが、そこで“誰かがやらなければならない”事態が発生した。「別に私が率先してやらなくてもいいや、私がやってあーだこーだ言われてもだるいしなあ」と思っていたのだが、驚くことに誰も率先してやらない。仕方ないなあと思いながら、久々に私は動き出した。笑

焦ったことはたくさんあったけど、結果として一応いい形となってとても安心した。動いたことで一番驚いたことはなんだか楽しかったこと。この感覚が懐かしかった。頑張ったねって言ってほしい気持ちももちろんあったんだけどさ、それよりもなんだろ、前向きに楽しんでやろうとしている自分を感じられて嬉しかった。私が楽しんで考えていたら、一緒に楽しんで考えてくれた人がいて、二人揃っていじられたりしたけど、最後まで楽しめたのは彼女のおかげだな。そして、どんなに些細なことでも「ありがとう」の感謝の言葉を伝えて、あなたが必要ですって心から思うようにしていたらみんな快く手伝ってくれて、当たり前なことかもしれないけど忘れていた何かを思い出したような気持ちになった。ものすごく大変なことでもなかったけど、先輩や同期から個別で感謝の言葉をいただいて、ちょっと泣きそうになったな、ちょっとだけ。

2泊したから夕飯後の懇親会(所謂飲み会)が2回あった。フリーにお話できる機会はその場しかなかったから、そこでは普段話すことができない人ともお話したかった。同期が輪になっている中で、どうやって先輩や他大学の方とお話すればいいんだろうと悩んだが、2日目の夜は「これが最後だ」と思って意を決して、動いてみた。私は自己愛とか攻撃性が嗜癖に及ぼす影響について研究しているのだが、今回の集まりには怒りについて研究している人が多くて、興味深い発表がたくさんあった。だから、そのような怒りの研究をしている人に声をかけてみた。フレンドリーにお話をしてくださったし、自分の研究にコメントをいただけて嬉しかった。そして、私以外に唯一嗜癖について研究している人が他大学にいらっしゃって、いつもお世話になっている先輩からもその人とお話してごらんと言われていたのもあって、お話したいなあと思っていた。遠くの卓にいたのだが、近くに来てくださって懇親会後半になってようやくお話することができた。本当に優しい。アドバイスがとてもためになった。自分の研究に対する気持ちが変わった。とても濃い三日間だった。

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起床後の珈琲

ユーモアが助けるもの

この投稿の前に、書きたいことがあったんだけど、自分が書きたい!!と思っている熱量が文章に生かされていないため断念。悔しい。

 

最近思うことは、大学受験で入りたかった学部に落ちて、なんでも幅広く学べる学部、言い換えれば何を学ぶかは自分次第である学部に入ってよかったなということだ。

いつも自分以外の誰かの所為にして生きてきた私は、決められたことをやる、つまりは何をやるかを自分で選択しなくてよい方が変な気力を使わなくて済むからいいなあと思っていたが、そこに要する"変な気力"こそが今の私にとってとても重要な向き合わなければならないものである。

その"変な気力"を使って下した決断が世間的に見て、第三者から見てくだらないものに見えたとしても気にする必要はない。その決断が自分にとってマイナスなものに思えてきたとしても、他人の所為にしてはならない。加えて、自分の所為にしてもいけない。それがマイナスに思えるのはまだ過程にある状態だからだ。つまり、まだやってないのだ。私はまだやってない。

 

私は美容院が大好きだ。美容師さんはお話が上手な人が多くて、いろいろな話をすることができる。先日、訪れた美容院は表参道駅のすぐ側にある小洒落た美容院だった。スタイルブックを見て気に入ったスタイルがあったので、そのスタイルにしてほしくて、そのヘアを仕上げた担当の人を指名した。人あたりが良くて、話しやすいなと思った。私は美容院に行くと大体美容師さんに「どうして美容師になったか」と「美容師になってやめたいと思ったことはあるか」を聞く。前者はいろいろな答えが返ってくるが、後者は結論的に「ない」という返答ばかりだ。

今回の美容師さんの前者の答えは、「かっこいいと思ったから」だった。

まあ確かにかっこいいけど、軽いな、これからこの人に私髪切ってもらうんだよな、大丈夫かなと不安になってきたが、後者の質問をした。

 

「一回美容師やめてるんですよ。くだらないなって思って。美容師って稼げないし、拘束時間長いから全然遊べないし。

でも、やめたら時間ができるわけじゃん。その時間をね楽だとか楽しいとか思えなかったんだよね。美容師として働いていた時間をちょっと恋しく思った笑 

あの時はやってなかった。何もやってないのにやめるってなんか違うなって。そっからめっちゃ美容師として技術上げたくなって今に至る。」

 

うわあ、どんなヘアになっても今日ここの美容院きてよかったなと思った。人が何かをやめたいと思う時は、コストを考える、他のことに目が行く、向上心より辛い気持ちが勝る時などさまざまだ。何かのために頑張るという気持ちでパフォーマンス力を上げる人もたくさんいるが、その行動をすることが楽しいと思えることはやはり何よりもパフォーマンス力を上げるのだと思った。そして、序でに人間としての魅力も開花させるのだと思った。その「楽しい」を得るためにはおそらく”変な気力”が必要になってくる。この人の凄いところは、やめた時間を退屈だと思ったところ。そこで退屈だと思うのも才能だ。愛があったからとは言い切れない。だって、やってから気づく愛もあるもんね。でも、「くだらない」「やってない」とかの言葉の言い方だったり選び方にどこか私に似ているものを感じたから、この人を遠ざけずに楽しく会話が出来たんだと思う。

 

同じ方向性ではなくても、何かを前向きに頑張っている人に囲まれている環境にいることを幸せだと感じることが多いこの頃。何が言いたいんだかよくわからなくなってしまったけど、これから二ヶ月間少し頑張ろう。

 

波の行方

いつかの日記で私は書いていた。ちょうど昨年の今頃だったと思う。私の悩みの根本は ”自分の孤独感” にあるということを。

定期的に日記は読み返すが、最近はこのブログを書くようになったし、すぐ書きたいときは携帯のメモに記すから日記の出番は虚しくも減ってしまった。でも、だからこそちゃんと書残しておきたいことや、冷静に整理しながら書きたいことがあると日記に頼る。日記を書く頻度が減ったわけだから読み返す回数も以前に比べて減った。前回開いたのはいつだったか、3ヶ月くらい前かと自分でも思い出せないくらい前なのだが、その時は昨年の今頃書いた "自分の孤独感" に関する文章に対して嘲笑した記憶がある。「相変わらず悲劇のヒロインぶってんな」と。3ヶ月前といえば、ギターを購入したり、料理教室に通い始めたり、友達と旅行に出かけたりしていた。充実していたというか新しいことを始めて新たな楽しみを手に入れ始めていた時期だった。そして、自分には仲間がいるという確信を強め、安心を得ていた。そりゃあ孤独感は感じないだろうし自由に好きなことばっかやっていたから孤独について語っている文章なんかに共感できるはずがなかろう。「あ、自分少しは成長したんだな」なんて呑気に思っていた。

 

私の中で波は消失したように見えた。波が強かった時は「落ち着いて、平坦を歩きたい」と願っていた。でも、その願いが叶ったのかなんなのか静まった時には過去を羨望していた。「今でいいじゃない、今がいい」と言い聞かせ、飲み込んだの。

 

人はある程度の距離にいる。それはずっと変わらないのに自分にとって見えるようにしたり、見えないようにしたりする。ある時は、近づいたり、全速力で離れたり。私は昔から自分から離れることが多いように思う。今 ”拒絶過敏性” について学んでいるが、その類なのかもしらん。拒絶される恐れに耐えられず先回りしてこっちから拒絶する。離れられる側にストレスがのしかかるのは勿論だが、離れるという行為にもストレスが発生することを知った。確かにそうかもしれないな、じゃあなんでするんだよって話。でも、離れなきゃならない時もあるでしょ。

 

Saucy Dogというバンドがある。ボーカルの名前は、石原慎也という。

もう3年以上認知はしているが、彼から発する言葉に響いたことはなかったし、みんなから愛される主人公っぽいキャラクター的に夢中になることもなかった。(歌は上手だし、曲も絶対売れていく)ただ、一年前から石原さん、つまりSaucy Dogの音楽に触れないようにした。どこか雰囲気が似ていた。

そんな中、先週彼らの新曲 "雀ノ欠伸" がたまたま耳に入ってきた。

 

明日はオレンジの風が吹く カーテンの向こう側

新しい朝がたまに怖くなるよね 僕もそうだよ

 

2番サビ。なんだろね、あったかいよね。Saucy Dogの音楽、石原さんのこともっと知りたくなった。彼の前のSNSのアカウントは物凄くネガティブな発言が多かった。見た人もネガティブ伝染するやろレベル。今のアカウントはネガティブ発言は見られず、前向き発信が多い。ちらほら意味深なものが拝見されますが。ここ数日間ひたすらに彼の口から出てくる言葉を漁ってた。

「安心を求めるよりも沢山の矛盾を受け入れて強くなろうね、お互い」という言葉にどこか懐かしさを感じた。

 

「風向きが変わる時の潮目って今の僕らだよね」と、誰かが言っていた。

 

いつもの自分かどうか

私は自分が持っていないものを欲しがり、自分の持っているものを蔑ろにしている。足りないものを補給することばかり考え、あるものに見向きもしない。

 

人間関係において、理想の自分との距離を詰めるために思ってもいないことを違和感なしに言ったり(でもこれは相手からしてみれば違和感の塊)自分の持ち味を薄めたりする。自分のアバウトな目標として「変わり続ける」というものがあるが、これはどうなのかと思ってしまっている今日この頃です。

 

「演じる」という行為は「騙す」ことではないと思っている。それも側面、一部分として考えられる。でも「演じる」という行為を「演じる」と捉えられたら、「演じる」の役割は果たすことができていない証拠となるし、「騙す」ことに繋がりかねない。そこの塩梅が全然できない。だから向いていないのかもしれない。

 

あ、別に病んでいる訳ではない。毎日こんなことばかり考えている。日常。久しぶりに会う友達から「最近元気?」と聞かれて「元気!」と即答できるくらいには元気である。それは、紛れもなく周りの人間のお陰だ。

 

困ったり、悩んだりするとすぐ友達に相談するということが当たり前だったから、今まで自分で考えるということを無意識的にしてこなかった。まず、そんな友達がいることに感謝しなければならないのだが、この私の当たり前体操はある見方をすると「責任転嫁」「安全保証」である。自分に甘々な赤ん坊。

 

人間関係もそうだし、将来のこと、アイデアのこと、自分自身のこと、色々ともうちょっとちゃんと向き合わなきゃな〜。

そして、新しいものに触れることも継続。刺激を活力に変えながらね。

 

やばい、最近お腹が出てきた。

仮面マトリョーシカ

「優秀な人」という括りに疑問を覚えたのは中学生の頃だった。先生から評価される人間が優秀なのか、友達から慕われる人間が優秀なのか。私はどちらでもなかったから「優秀な人」の仲間入りは出来なかったが、そもそも仲間入りしたいとも思わなかった。その所謂「優秀な人」に感心したことがなかったし、魅力を感じなかったから。

大学生になってからも「優秀な人」に出会わなかった。自分の中の解釈も定まっていないから見つかるわけがない。でも、就活を少しずつ始めて、さまざまな人と出会う中で優秀な人って本当にいるんだなと思った。

会社概要などで "我が社は優秀な人材を揃えています" という文字を見て、自分で言うなし!と思うのだけれど、変に謙虚になっても誰も志望しないよな。そして、実際に足を運んでイベントに参加すると、まずその場に集まる同期に圧倒される。そして、就活を終えた先輩や、企業の方。周りにいる人が凄い経歴を持っている人ばかりで眩暈がする。

でも、患っている場合ではないのだ。最終的にはその人たちに勝たないといけないが、その前に私はまだ武器すら持っていない。まだ選んでいる段階だ。武器選び、進む道、戦う相手。選択の幅は無限大で困ってしまうが、ここが一番肝心だ。面接や面談でフルボッコにされる毎日だが、全て意味のあるフルボッコだと捉えている。今やるべきことを順序よく。頑張れ。

最近就活を始めた友達が「諦めは大事だよ」なんて言ってたけど、お前がプライド高いだけだ。同じにすんな。まあでも、人間には優しくね。「ウンウン」言ってればいいのよ。うんうん。

さあ学校行こか。今日もいい天気です。