ひなたぼっこしようか
「こちら側のどこからでも切れます」
を見つけると、切りにくそうなところに挑んでしまう捻くれ者
そもそも
普通に切り口があってもうまく切ることができない不器用(ブキッチョ)
もちろん
切り口がないと切ることを断念(短気)
カップラーメンのかやくとの奮闘で、私は自分自身を露わにする
ことに
今おしるこを啜りながら気づいた。
でも
そんな捻くれたところも、不器用なところも、短気なところも、
受け入れてくれる人がいるのは
周りが寛容だから、そして程よい距離感を保ってくれるからだ。
私は人に支えられて生きている。
頻繁にではないけれど、たまに実感する。
多分最近まではあまり実感できていなかったように思う。
人がいる有難さを実感するためには、自分に余裕が必要である。
日々の生活が忙しかったり、悩み事が沢山あったり、課題が山積みだったりする中で、余裕を持つことは簡単なことではないけれど
「自分に余裕がある!!」
と言い聞かせるだけでも大分違うのだ。
ふと気づいたら自分が憎たらしい顔をしていた。
そんな時、顔を引き攣らせながら笑ってみた。
嬉しいことなど何もないけど、少し心に余裕があるように思えた。
行動から感情を操作するタイプのあれだ。
普通は感情から行動する、即ち感情が行動によって表現されているのだ。だから感情も正直であるし、行動も正直。
(まあ行動に感情の善悪を染み込ませることは容易で、解釈は千差万別。それを私は正直とする。)
行動から感情を操作すると、正しい行動、理想の行動、安定した行動ができるかもしれないが、
定着してくると何が「本当」なのかわからなくなってくるのだ。
これを「本当」にさせたのが私の父親であるが、私は定着させることが未だできていない。そして、これが私に合った方法なのかもわからないので模索中である。
私がいう「仏」とはまた別の方法論。
私は「仏」を目指している。ただただ無。
これが本心ではないことは自分でもわかるが、この方法論も全捨てしてはいない。
9月、ほっこりはんに言った。
「私、仏になりたい」
冗談混じりで笑いながら言ったから、「は、バカなの?」くらいの軽さで返ってくると思ったら
「本当にそれでいいの?」
と言われた。言葉がずっしりしていた。
私が本心で仏になりたいと言っているのではないことがわかってた上での言葉だったし、
「それでよくないよね」とは言ってないけど、微笑みながらそう言われているような温かさがあった。
それでも仏方法論を捨てないのは、私がただ頑固で弱虫なだけだね
答えを出すのではなく、答えを出すスパイスを選ばせてくれるような人。スパイスをふりかけられる訳でもない。
スパイスを選んでいる時間が一番好きなのかもしれないな。
私は切るのが苦手だもん。