色はいらないけど軸がほしい

音楽、本、映画、人、言葉、時間その他諸々

お守り

美しい空間にいた。

昨日、全力で気持ち大放出しようと思ってたのに、強がらずとも涙は出てこないし、気持ちが溢れなかった。感情が出せなくなったのか、気持ちに整理ついたのかよくわからないけど、今平常運転できている。思えば、年始のフィッシュライフのライブはいろんなものが込み上げてきて、且つスッキリしなくて困ったもんだった。

人は1年間で少し強くなれますよ。だから、がんばろう。

 

私は「みんなも辛いよ、貴方だけじゃない」の言葉に励まされる単純な人間だけど、みんながみんな私じゃない。この言葉が何の慰めにならない人もいる。私は言葉に励まされて生きているけど、それが言葉じゃない人もいる。

言葉じゃなくても何か「お守り」みたいなものがあるといいね。負の感情が湧き上がりそうになった時にそれに頼ることで持ち直すことができる。でも、それに過度に頼っては効果が薄くなっていく。

だからそれを当たり前と思わないで、いつも感謝の心を持っていよう。

 

強くあろう!強くあろう!として疲れたら、たまには感傷に浸ってみてもいい。

でも、何事にも前向きでいることを忘れないで。湯船に浸ろう。大丈夫。

 

昨日は、indigo la Endのライブに行った。川谷絵音の30歳の誕生日でもあった。私にとって絵音さんもお守りだ。「煙恋」聴くことができてよかった。またいつか会いに行きたい。

落合陽一との対談楽しみだなあ。お誕生日おめでとうございます。

 

そういえば、京都の紅葉は綺麗だった。

南禅寺永観堂に行くために蹴上駅を使ったのだが、蹴上駅に着いて構内を出た瞬間に見えた景色に圧巻でした。 友達(京都在住)に「こんなはしゃぐ?」て言われるほど騒いでしまった。

空気が澄んでいて、駅付近は紅葉スポットではなかったけど景観が心に一直線だった。この気持ちを友達にわかってほしかったけど彼女は驚くほどしらけていた(笑)

とても楽しい旅行でした。

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もみじ

 

見えない緑が見えたんだ

月とか花火とかイルミとか、所謂「光」を見ると素直に綺麗だなーと思うんだけど、

森、つまり「緑」を見ても綺麗と思ったことがなかった。

 

緑をじっくり見る時は、大体ドライブの時。いくら眺めてもあまり感動はしないな。

 

以前、川越に行った。小江戸感が素敵だった。夕方から行ったら、川越のお店はほとんど16時頃閉まっちゃうみたいで商店街は静まりかえってて物寂しさを感じたけれど、江戸時代にタイムスリップした夢を見ているみたいで小さな幸せを感じていた。のんびり歩きたくなるような所だった。どこか素敵な世界に連れってくれるんじゃないかって。

 

その後、ビアガーデン行くつもりだったんだ。でも、いい感じのお店が川越付近になかったから移動することになった。それで大宮に移動したのよね。その流れで行った公園が今まで訪れた公園の中で一番印象深い。一番雰囲気が好きというわけではないけれど、今一番行きたい所。一番って不思議。

  

そこで見た緑に私は見惚れていた。緑に見惚れるって何って感じだけど、見惚れた。幻想的だったなあ

 

そう、紅葉が見頃なんです、今。

ってことで、明日明後日でいろんな景色見てこよう。

 

ライブ

先日、久しぶりにライブに行った。

インストアライブはちょくちょく行ってたが、ライブハウスでのライブは4ヶ月ぶりだった。

 

運動をしていないせいか体力がなくなったと思った。

ライブ後半戦始まるぞーってとこで疲れを感じた。今までライブ中は疲れを感じたことがあまりなかったのに、今回全力で楽しめてない自分を見つけてしまった。

 

フィッシュライフが解散してから、私は気になる売れていないバンドのライブになるべく行こうと思った。いつ解散するかわからない、音源が残っていても生で聴けないことには変わりない。

 

いつかフジファブリックのファンが書いたブログか何かを読んだ。

その人はかなりの古株で小さい箱の時からライブに訪れていたそうだが、途中でもういいかなという感じになったという。以前のように楽しめなくなり、そんなもんかと勿体無い見方をするようになった。

志村さんの死は、彼をなんとも言えない気持ちにさせた。あの時、もっと楽しめていれば。つまんない見方をしてなければ。

死んでしまったら、もう絶対に生で声を聞くことができない。

 

だから、無理にライブに行けということではなく、ライブに行くなら全力で楽しめということを自分に言いたい。

 

 

脇役同士のダンス

"仕方ない、どうでもいい"

が口癖になってきた

 

ふとした時に言ってるなー。あんまり良くはないだろうけど、ほんと楽ちんだ。

 

「まあ仕方ないよね」「どうでもいいんですけどね」と付け加えるだけで、深く考える必要性がなくなる。

考えずぎちゃう性格の人に伝授したいわ。ほほ

 

(使用例)

人間みんなイキリたがりだ。

何かにおいてマウントをとりたがる。それで自分の価値を見出しているのか。マインドフルネス療法実践してみてはいかが。人のこと二番煎じって言ったやつ、お前も所詮二番煎じやぞ、二番でもない。ダサいって言われるのが一番嫌なんだよね、じゃないわ、言っとくけど、お前の無駄にかっこつけるところめちゃくちゃダサいから。まあどうでもいいんですけど。笑

 

 

最近、否定も肯定もされなくなった。だから心地よいのだ。否定されたら単純にイラつくし、肯定されたら本当に君わかってるの?ってなるからね。ただ聞いてくれるだけでいい。それで何かを投げかけてくれたらいい。そして、受け入れてくれたら感涙。

というか変にパーソナリティに関わる話をしてないんだ。するとしても、絶対的信頼をおける返答が返ってくる人だけ。3人もいないんだけどね。自己解決してるから大丈夫ですって感じだ。

 

あー雪を食べたい。上向いてパクパクーって。どうせ寒いなら雪ふらせてよ。何も降ってこないよ。雪ふらないかなー

 

今、嫌な予感がしているんだ。この変な感がよく当たるんだよ。

だから急がなきゃ。今のうちに噛みしめなくちゃ。

のんびりしてられない。急ぐの嫌いだけど、久しぶりに走るかー。

 

掴みたい時は”仕方ない”で終わらせない。その選択しかできなかったって思えるように動きたい。 

 

あーなんか中途半端だ。全て。

久々にバチバチに決めたい。

素面

先月は友達と遊ぶのをやめよう期間だった。

 

11月はそれを継続するでも、久しぶりに友達と遊ぶでも好きにしようと10月下旬に思った。

その時は、

あー友達と遊びたくなるんだろうなー

と思っていたのだが、11月上旬になったら、

なんだ、別にこのまま継続でもよくない?

てな感じになってまして。

 

意外と10月が充実したものになっていたのよね。まあ充実と言っても隙間時間を読書に費やしてたってだけなんだけど、心地よかった。心が非常に落ち着いていた。学校で友人に最近ぼーっとしてるねと言われるくらいには穏やかだった。

 

でも、心のどこかで人間を求めていたんだと思う。

ほっこりはんに会いたくなって、突然電話した。

前に「電話していい?」って前置きしたら「かけたいときにかけろ」と言われたので、突然かけてみた。

 

プルルルル、、、、、

 

でないやん!!!あーもう拗ねた。ふて寝する!

 

て、お布団に潜ってたら、電話かかってきた。スタバでお勉強してたんだと。それからゲラゲラ笑いながら久しぶりのほっこりはんを堪能した。30分だけ。

久しぶりに友達とゆっくりお話できて嬉しかった。

 

 

「変わったね」という言葉は「変わったね、よかったね」と「変わってしまったね」の2種類の使い方がある。

「変わってしまったね」の言葉を貰って、いい気持ちになる人は少ないだろう。でも「変わったね」が使われる時、この意味が含まれることが多いように思う。

 

変わりたいと意識していても、無意識的であっても、相手が思う「変わる」というのは相手にとって都合のいい自分かどうかということである。つまり、「変わってしまったね」は「私にとって都合のいい貴方ではなくなった」と言われているのと同じことなのだ。

 

だから、「変わってしまったね」と言われても落ち込まなくていいのだ。

 

寧ろ、都合のいい自分ではなくなったんだ、イエーイくらいに思っていい。

好きな人の好きになるのも素敵なことかもしれないが、私は自分に自分を問い続けたいと思う。目指す先は決まってないし一つではない。今は荷物を持とうとしている状態だが、荷物をたくさん持ったら下ろしていき、最終的には何も持っていない状態でちゃんと自分を表せるようにしたい。それは、誰かが私を認識するという意味ではなく、自分が自分と思えればいいという意味だ。

 

最近、周りの友達複数人が「過去に戻りたい」って言ってるのを聞く。

気持ちは分からなくはないが、私は過去に戻りたいと思わない。

今が楽しいから!というより、後悔がないからかな。あの時ああしとけばよかった、、、って、それができなかったからその選択になったわけで、あの時の自分はその行動しかできなかったよーて。

でも、過去が変えられないからって見ないのもなんか違うかなって思う。

前よりも自分が納得する行動を取るためには、前の自分と向き合う必要があるからね。

今すぐじゃなくてもいいから、徐々に。

 

まだリュックサックの中身は溢れるほどものがないよ。

ひなたぼっこしようか

「こちら側のどこからでも切れます」

を見つけると、切りにくそうなところに挑んでしまう捻くれ者

 

そもそも

普通に切り口があってもうまく切ることができない不器用(ブキッチョ)

 

もちろん

切り口がないと切ることを断念(短気)

 

 

カップラーメンのかやくとの奮闘で、私は自分自身を露わにする

ことに

今おしるこを啜りながら気づいた。

 

でも

そんな捻くれたところも、不器用なところも、短気なところも、

受け入れてくれる人がいるのは

周りが寛容だから、そして程よい距離感を保ってくれるからだ。

 

 

私は人に支えられて生きている。

頻繁にではないけれど、たまに実感する。

多分最近まではあまり実感できていなかったように思う。

 

人がいる有難さを実感するためには、自分に余裕が必要である。

日々の生活が忙しかったり、悩み事が沢山あったり、課題が山積みだったりする中で、余裕を持つことは簡単なことではないけれど

 

「自分に余裕がある!!」

 

と言い聞かせるだけでも大分違うのだ。

 

ふと気づいたら自分が憎たらしい顔をしていた。

そんな時、顔を引き攣らせながら笑ってみた。

嬉しいことなど何もないけど、少し心に余裕があるように思えた。

行動から感情を操作するタイプのあれだ。

 

普通は感情から行動する、即ち感情が行動によって表現されているのだ。だから感情も正直であるし、行動も正直。

(まあ行動に感情の善悪を染み込ませることは容易で、解釈は千差万別。それを私は正直とする。)

 

行動から感情を操作すると、正しい行動、理想の行動、安定した行動ができるかもしれないが、

定着してくると何が「本当」なのかわからなくなってくるのだ。

これを「本当」にさせたのが私の父親であるが、私は定着させることが未だできていない。そして、これが私に合った方法なのかもわからないので模索中である。

私がいう「仏」とはまた別の方法論。

 

私は「仏」を目指している。ただただ無。

これが本心ではないことは自分でもわかるが、この方法論も全捨てしてはいない。

 

 

9月、ほっこりはんに言った。

「私、仏になりたい」

 

冗談混じりで笑いながら言ったから、「は、バカなの?」くらいの軽さで返ってくると思ったら

 

「本当にそれでいいの?」

と言われた。言葉がずっしりしていた。

 

私が本心で仏になりたいと言っているのではないことがわかってた上での言葉だったし、

「それでよくないよね」とは言ってないけど、微笑みながらそう言われているような温かさがあった。

それでも仏方法論を捨てないのは、私がただ頑固で弱虫なだけだね

 

 

答えを出すのではなく、答えを出すスパイスを選ばせてくれるような人。スパイスをふりかけられる訳でもない。

 

 

スパイスを選んでいる時間が一番好きなのかもしれないな。

私は切るのが苦手だもん。

 

 

 

 

遺失物

 『映画』

2018年になって

週1で映画を観ようキャンペーン

を勝手にやり始めた。

 

このキャンペーンなるものは

新しい年を迎えると新しいことを始めたくなる(ルンルン)

というよくありがちな動機からだった。

 

1ヶ月も続かないだろうなーと思ったら2ヶ月続いた。

映画を観ることを義務としたくなかったので、無理くり予定を空けて観に行くことはしなかった。

だから、結果として2ヶ月しか続かなかったわけだが、映画はよく観に行く。

 

中高生の頃は、友達と遊びに行くといったら映画は定番メニューだった。観る映画は1番の話題作が多かった。

みんなが興味あるものを選ぶとなるとそうなってしまうのだ。仕方ない。

 

最近は一人で映画を観ることがほとんどだ。

一人映画の最大の利点はなんといっても自分の観たい映画を選べること。

誰にも邪魔されないし、気を遣う必要もない。自由だ!

 

だからこそ、たまに友達と映画を観に行くとなると心なしかワクワクする。終わった後にあーだこーだ言い合うのが好きだ。

 

数えてみたら今年は12作の映画を観ていた。もう少し観ているかと思ったが月1ペースだった。

あ、でも御用達になりつつあるネイルサロンで毎回映画を見てるからそれも合わせたら20は超えるだろう。

 

私は「太陽の塔」を観なくてはならない。

火曜日、絶対に観に行こう。

 

どうにかなる人生。

湯船に浸かって、出てきた時には。